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倭城とは豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役のとき、日本 軍が朝鮮に築城した城のことである。慶尚南道の海岸沿いに、この倭城がいくつもある。
専門ガイドの金青子さんに 案内を頼んだ。日本の城は江戸時代に何度も改修されているため、豊臣秀吉の時代の築城技術はかえって韓国によく残っているといわれている。この西生浦倭城が約30ある倭城のなかでも最も石垣の保存状態がいいといわれている。なるほどすごい歴史の現場と感じた。
帰った。清正は朝鮮での苦戦を生かし、領地の熊本にも西生浦倭城のような戦闘用の城を築いた。西生浦倭城に井戸が少なかったため、馬の血を飲み水の代わりにするといった耐え難い経験も強いられた。これを教訓に熊本城には多くの井戸を作り上げた。また、熊本城の築城には朝鮮で鍛えられた器量が十分に生かされている。石の形を一様にし、整然と積み上げていく方法は朝鮮で得た工法だった。 朝鮮半島の南海岸に築造された倭城は、日本の城の歴史に重要な意味を持っている。それ以前の築城は、自然の石を適所に配置し、積み上げていく方法が主流だった。朝鮮侵略の発信基地として豊臣秀吉が作り上げた佐賀県唐津市の名護屋城もその代表的な例だ。文禄の役以降の日本の築城技術は、石を一様に加工し積み上げる方法へと発展し、その姿も三日月のような曲線をなすものへと変わっていった。熊本城がまさにその代表である。築城に関しては、朝鮮で倭城を作ることによって熟練された手法が逆輸入されたと言ってもよい。つまり、朝鮮侵略を前後して日本の築城が中世から近世へと変わったとも言えるだろう。その後、徳川家康は、戦いを抑制するために各藩に城はひとつのみとし、残りの城を取り壊すよう命じた。城をひとつしか持てなくなった大名たちは、それぞれの藩に富を尽くした華麗な城を築き上げた。平和な時代に造られた城のほとんどは、戦闘用ではなく、見せるための性 格が強いと言える。