狎鴎亭と伴鴎亭の話
崔 碩 義 今日は「狎鴎亭」と「伴鴎亭」のことを酒の肴にして話そう。先日、ソウルに行った時「島山・安昌浩記念館」を参観するために地下鉄「狎鴎亭」駅に降り立った。 いま、江南のこのあたりは高層マンションが林立し、オレンジ族がたむろすることで知られ、韓国風俗流行の最先端をいく街だ。若者たちが風を切って歩いている点では東京の原宿と幾らか似ている。 「狎鴎亭」という地名は、その昔、悪名高い韓明へ(ハンミョンヘ)(一四一五-八七)が晩年、漢江のほとりであるこのあたりに「狎鴎亭」という別荘をかまえたことに由来する。 では、韓明へがどんな人物であったかをみると、端宗から王位を奪った世祖の謀臣として韓国知史にその名を留める。自分の二人の娘を上妃にいれ、靖難、翌載、佐理のそれぞれ一等功臣になった。二度まで領議政(宰相)になり位人臣を極め、権勢と富貴栄華を謳歌したのである。 だが、その性行は酒色、賄賂を好み、金銭に強欲な上、奴婢や愛妾を多く抱え、広大な家を建てて住んだ。しかも虚栄心と偽善が多くて世間の評判は良くなかった。 韓明へは引退後も、狎鴎亭に住むよりも、王宮で過ごす時間が長く政事にうるさく干渉した。かれは、亭子を建て、鴎たちを友として風流を楽しむ格好をしただけであった。 鴎の敏感な鳥で、韓明へがいる狎鴎亭には決して狎れ狎れしく近付かなかったとか。 「狎鴎亭」の韓明へとは対照的に、黄喜(ファンヒ)(一三六三-一四五二)は、臨津江の江畔に小さな亭子を建て「畔鴎亭」と名付けて、九十歳で死ぬまで、ここで静かに目名実ともに鴎を友にして余生を送ったのである。 何年か前になるが、軍事境界線に近い臨津閣に行ったついでに、近くに「狎鴎亭」があるというので訪ねたことがある。 そのとき、わたしはリュックサックを担いでソウル駅から京釜線に乗って「ムン山駅」に降りたものだ。 韓明への「狎鴎亭」は跡形もないが、黄喜の「狎鴎亭」の方は、当時の面影をそのまま残していた。亭子からの臨津江の眺めもよかったが、白鴎が舞っていうる光景が印象的であったことを今も覚えている。 黄喜は朝鮮初期、十八年以上も領議政を務めた名宰相。清廉潔白な清白吏としても広く知られる。加えて、十五世紀の出身、身分がやかましかった時代に人間尊重の思想を持ってた人物として、数多くのエピソードをもつ。 黄喜が自宅にいるときは、よく奴婢の子どもたちが黄喜の膝に乗って髪の手や髭を引っ張って遊んだ。 あるとき、紙を拡げて字を書いていると、その上に小便を漏らしてしまった。それなのに黄喜は手でさっと拭って始末をし、起こった顔を見せなかったという。 「婢亦天民也(山+豆)令虚使也」(奴婢たちも天が受けた人間だ。決してひどい扱いをしてはならない)という信条に黄喜の面目躍如たるものがある。
|